コラム「ちょんな」

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ちょんな 浜松建設業協会の総務・情報委員会メンバーによるコラムです。

2010年2月

奈良を旅して

 1月の今月の町並みに法隆寺の写真があった。それに誘われたわけでもないが15年ぶりくらいになるか、久しぶりに奈良に行ってみた。浜松から3時間、伊勢湾岸道ができ、ずいぶん便利になったものだ。奈良はシーズンオフで観光地も閑散としていた。

 奈良公園では相変わらず鹿がのんびり居眠りしたり、鹿せんべいを持っている修学旅行の中学生を追いかけていた。しかし、東大寺境内では昔と随分変わっていた。話声の中に日本語が聞こえない。聞こえるのは中国語、韓国語ばかりだ。日本人は何処に行ったのだろう。東大寺は聖武天皇が国と国民の平安を祈願する為に建てられたお寺だ。平城京の時代では仏教研究と教育の為に中国、朝鮮からの渡来人、高僧も数多く訪れたことだろう。現在では一般観光客として海外からのお客様が訪れるようだ。奈良県では古の交流の歴史をたどりながら奈良の観光地を紹介するパンフレットを作成し中国、韓国からの観光客誘致を熱心に行っているようだ。観光を通じて日本文化にふれ、相互理解が深まれば国際関係改善に良いことだと思うが、私たち日本人が自分たちの歴史、伝統を忘れてしまっているのではないかと、考えさせられた。

 奈良市の南、天理市から桜井市にかけて古墳が山辺の道ぞいに多数存在している。その中に卑弥呼の墓ではないかと言われている箸墓古墳を含む纏向遺跡がある。すぐ近くに卑弥呼の鏡、三角縁神獣鏡が33面も出土した黒塚古墳もある。昨年その纏向で、3世紀ごろの大型建物の遺跡が発見された。卑弥呼の宮殿跡発見か、邪馬台国論争の決定的証拠になるのではないかと報道され、記憶されている方も多いと思う。今は騒ぎも収まり、静かな町に戻った。邪馬台国かどうかは今後の調査を待つとして、平城京が始まる500年も前にこの地方に有力な国があり、日本各地から人が訪れていたことは間違いないようだ。今では大和盆地の片隅の田園地帯にすぎないところが、当時日本の中心だったかも。当時の人々は自分たちの国、住んでいる土地にどのような思いがあっただろう。日本人は古来より太陽を崇め、自然、土地に感謝と恐れを持ってそれを神としてきた。卑弥呼の日本名は日巫女(ひのみこ)と呼ばれ、太陽の化身、象徴のような存在だっただろう。ちなみに、魏志倭人伝の卑弥呼の字は当時の中国から僻地にある日本を蔑んでつけられた。日本人なら、日巫女の字を使ったらと思う。

 この時代から自然とともに生き、生まれた土地を大切にして私達の祖先は暮らしてきた。これは現代に生きる私にも祖父母、父母をとうして大切に伝えられた。この自然崇拝の思想を、建設産業に従事する人は特に大切にしていかなければいけない。それは、建設業は環境を簡単に造りかえることが出来るからだ。浜松建設業協会に属する地元に根付いた私達は、自分たちの土地、自然を守り育んでいく事を使命として活動している。建設業は公共性の有る産業だから、私達はこれからも、自分達の町、故郷を守るためにがんばらなければと、奈良を旅しながら改めて思った。

<K.K>