コラム「ちょんな」

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ちょんな 浜松建設業協会の総務・情報委員会メンバーによるコラムです。

2012年7月

 初めてインドに行きました。よく言われるのが、もう2度と行かないと思うか、また行きたいと思うかという2極に分かれるということです。確かにその通りです。余りに日本と違いすぎる。

 まずは温度。私が行ったのは6月でしたので最も熱い時期で、カラスも日陰に避難夕方だというのに43度。街に立った瞬間、熱風の中にいるという感じ。翌日も天気はよく、オートリキシャー(3輪オートバイ)の運転手は、53度と言っていた。正確さはともかく、体感はその通りです。石も木も鉄もお風呂のように熱いのです。日向の石は熱すぎて座っていられない。カラスも日陰に避難する。この暑さの中を歩くだけでも、参ってしまう。さらに塵埃とクラクションの洪水。

 ゴミ、不潔、埃、クラクション。歩く人たちは、ゴミも唾もそこらに落としてゆく。ゴミ箱とかゴミを処理する所がないのだから、どこかに捨てるしかない。私もそうするしかなかった。それらのごみをせめて自分の店先だけはと、道の中央に掃出す。一風吹けば、すぐ自分の店先にもどるのに。下水(といっても恐らく雑排水)の蓋が壊れて、歩道に穴が開いたままになっている。そうかと思えば、下水の穴の周りに、中に落ちていただろう土が、黒い塊の山となっている。食堂のすぐ横を異臭を放つ雑排水が流れている。野犬がそこらにいる。大人の物乞いも子供もいる。余りに多くの人がいる。繁華街を歩いていると、やたらと日本語で話しかけてくる。私はただ日本の人と話したいだけだ、と実に流暢に話す。いろいろ話した挙句、いい店があると言う。リキシャー(人力車)の運転手もオートリキシャーの運転手も、「どこ行くんだ。乗ってかないか。」と声を掛けてくる。これらを一言でいえば、混沌ということだろうか。恐らく戦後のドヤ街というのはこうだったのではなかろうか。そして、戦後の日本はインドの町並み皆が同じような境遇だったけれど、ここインドでは、これらの喧騒の一方、敷地を綺麗に囲いガードマンを雇った高級地があったり、欧米の高級も併存する。明らかな階級制度があるとしか考えられない貧富の差が、実に極端に見られる。私は街を歩く時は、出来るだけ口で息をするようにした。何故なら、臭いが気にならなくなるから。お蔭で熱さと喉で体調を崩してしまった。

 でもそれらを気にしなければ、街は非常に活気にあふれ、エネルギーに満ち溢れている。牛が荷車を引いている。人も荷車を押している。自転車の荷台に山一杯の荷物を載せている。リキシャーもオートリキシャーもバスもトラックも皆同じ道路を使い、道路を通行する限りは、皆同権だ。牛も、人も車も[写真]。だから少しでも隙間があれば、その隙間に自分を突っ込む。ひっきりなしのクラクションは景気づけのラッパと思えばいい。オートリキシャーの運転手との値段のやり取り(乗る前に交渉)も面白いし、買い物の冷やかしでの片言の日本語によるやり取りも面白い。リキシャーの運転手が鉄道の高架道を一生懸命漕いで頂上に達した時には、ともに”reach the top! you are great” と言って喜び合う。

 多くの人がいて、様々な階層の人がいて、皆が摺り合ったらすごい熱が発生する。そのエネルギーには凄いものがある。只、熱さと塵埃などを乗り越えて、これらを楽しむには相当の体力がいる。

 旅を終えてみて、最初に書いた2極に分かれるというのは、本当にわかります。で、私はといえば、どちらか今でも迷ってます。何れにしても、今までで一番強烈な印象の国であったことに間違いありません。

<M.I>