コラム「ちょんな」

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ちょんな 浜松建設業協会の総務・情報委員会メンバーによるコラムです。

2009年4月

 世の中どうなるんだろう、と不安を抱かせるニュースばかりが聞こえてくるけれど、外は絶好のお花見日和。1年に1度ここぞとばかりに、桜が華やかな姿を見せている。

 先日、「世界経済の謎」という少し古い経済の本を見て、納得したことがありました。それはどんなことかと言いますと、サブプライムとかファンドとかお金の錬金術みたいなよくわからない言葉が飛び交っているけれど、大本は非常に単純な理屈だった、ということです。

 100年に一度の金融危機とか世界同時不況とか言われているけれど、私たちの雲の上の世界で頭のいい人達が数字を複雑に自在に操って築いた金の山が、どこか小さな綻びから崩れてしまった、というような印象があります。金融とか投資の世界は、兎に角よくわからない、という印象があります。しかし、世の中の経済はそれなしでは成り立たないどころか、そういうところで動いている。実物と違う世界でロジックにロジックを重ねた複雑な仕組みで、世の中が動いている。果たして、それはどんな仕組みなのだろう。ネズミ講のように最後に破綻してしまう、なんてことはないのだろうか。

 その本の中では、経済の大本は、実物に即している。実物が基本だ、ということが書かれていた。
 たとえば、米を作るのが得意な人がいる。その人は、自分が食べる以上の量を作る。他の人は、大根を作るのが得意で、余るほど出来る。そうすれば、米と大根を交換すれば、お互いに変わったものが楽しめる。これが物々交換。でもこれでは、お互いの欲しいものが一致しないと成立しないし、しかも市場にまで持っていかなければならない。そこで、貨幣に共通の価値を認めて、貨幣で価値の交換が出来るように約束すれば、余った物を態々市場まで運ばなくても、欲しい人の所に届けることが出来る。又、欲しいものがあれば、貨幣を持って市場に行けば手に入る。貨幣というのは、私たちの多様な欲求を実現するのに非常に効率的なシステムで、人類の生活を飛躍的に向上させている。この貨幣を実物の裏付けがなくても価値を認めよう、ということになったのは、1971年のニクソンショックだそうです。貝殻が貨幣の始まりだったという紀元前千数百年以来、三千年以上の長い期間貨幣は、実物の裏付けなしには価値が認められなかったのです。

 先ほどの米と大根の場合は、同じ時間に場所が違う人々の欲求を満たす、と言うことが出来ますが、他方お金を使う時間が異なる場合が、投資や貸借になるということです。ある人はお金をたくさん持っている。すぐ使う必要がない。他方、すぐお金が必要な人がいて、後で返すことが出来る。それでは、まずはお金を貸して後で返してもらうことにする。それに当たっては利子という相応の利益を得る。これが、貸借や投資の基本だということです。(頭のいい人というのは、こういうことを言えたり考えることが出来るんですね。) 確かに言われてみるとその通りで、納得してしまいます。これらの投資や貸借が情報化社会の恩恵で、場所も時間も異なって幾重にも重なったのが今の社会だ、と書かれていました。そして乱暴に言えば、実体を離れて自由に発行できる貨幣を作りすぎてバブルを発生させてしまった、ということだそうです。

 わかったようなわからない話を長々と書いてしまいましたが、納得できる理屈を並べられて、少し経済を理解できたと思い込んでいます。何故かちょっと安心した次第です。

<M.I>